第 2923 号2005.01.30
「 ネコのお話 」
近藤 直子(厚木市)
そのネコは首をちょっとかしげ、ためらいながら近づいてきた。そして小さな鼻で、差し出した私の指をツツンとつついた。
人懐っこく、紅い皮の首輪をしている。どうやら飼い猫、ならば大丈夫、と思い切ってだっこしてみた。手入れの行き届いたグレー色の柔らかい毛と毛の間から、懐かしい、タローと同じ匂いがした。
タロー。我が家の玄関から堂々と登場し、そのまま家族の仲間入りを果たした大胆なオス猫。きじとら模様の大きな身体。30センチはある長い尻尾。ピンと張った耳がトレードマーク。なかなか賢く、“お姉 ちゃんを起こしてきて!”と母に言われれば、朝寝坊の私のベッドに駆け上がる。電話の受話器を耳にあて、“タロちゃん”と聞こえようものなら“ニャ-”と元気よくお返事。あっという間にボス猫と化して、近所の猫をひきつれ、偉そうに闊歩している姿を何度もみかけた。
そのタローは、父が亡くなった2週間後に忽然と姿を消した。至る所を探し、占い師に頼んでまで見つけようとしたけれど、それからタローに会うことなく5年の歳月が流れた。
時々、ふと、タローはどうしているかな、と思うことがある。偶然出会った、今、私の腕の中に居る小さな猫の、猫だけにある猫の匂いが、遠ざかりつつあるタローの“気配”そのものを呼び起こしてくれた。
匂いとは不思議なものである。記憶は知らない間に薄れていく。けれども匂いは、しっかり覚えているもの。匂いをかいだ時、思い出が蘇る。まるで失った何かを、再びこの手に戻してくれるような、そんな嬉しい魔法のように。
タローと居た時間の中をさまよう私に、その見知らぬ猫は背を丸め、私が現実の時間に戻る時を、じっと待っていた。