「 春の匂い 」
後藤 美樹(新宿区)
長い冬が続くと、ある時ふと春の匂いのする日がやってくる。それを感じる瞬間、冬の間寒さに固まっていた気持ちがふわっと解放される。この温かい匂いを、毎冬私は待ちわびている。そして今年は、その匂いと共にひとつの映像的なイメージ――沢山の花に彩られた山の風景――が私の心に浮かび上がってきた。
そのイメージは、以前見たドキュメンタリー番組に由来する。山奥の過疎化が進んだ村で、ある老夫婦が、今まで畑として使っていた土地を山に返すのだと言って山のいたるところに花を植え続けているのである。そうして咲いた花々の美しさはもちろんのこと、後継者のいない自分たちの生活が消えていくことを前提とし、自然へ感謝の気持ちを込め、自然の中に自分たちの存在を「花咲かせる」という、とても美しい形で還元していこうという姿に感動した。それと同時に、こんなにも美しい行為がもしテレビで映し出されなかったら、誰にも知られなかった可能性があることに気づき愕然とした。
「良いものは残さないといけない」とか、逆に「良いものは残るはずだ」とか、そういう常識になぜか縛られてしまっているけれど、実際には良いものでも人知れず消えていくことはきっととても多いのだろう。悲しいニュース、憤りを感じるニュース、そういう情報は世の中に溢れていて、それを知り憂うことは案外たやすい。けれどもそんなふうにしている間にも、この老夫婦の咲かせた花のように、美しい思想や正しいことへの信念というのは世界のどこかに存在していて、その美しさや正しさを知る人にひっそりと守られ、他の人には存在すら
気づかれずに消えていくことが沢山あるのかもしれない。
知らない場所に美しい想いがあり、美しい行動がある。それを知った時の心温まる感じと、今年もふと感じた春の匂いはなぜかとても似ていた。どちらも形は持たずに不確かなものではあるけれど、そんな匂いのようなものでも大切にしたいと思う。