「 千円の重み 」
秋本 芳成(横須賀市)
底冷えのする今年早春、日曜の夕方だった。上野の美術館に行った帰りのことである。
寒い上に小腹が空いて、足は自然にアメ横のやきとり屋に向いていた。
さっそく燗酒と煮込みで至福のひと時に入ったが、私の隣に座っている五十絡みの男性がなんだか気にかかる。酔ってジャンパーやズボンのポケットをまさぐりながら、立ったり座ったりして妙にあせっているのだ。
男性の前のカウンターにはクシャクシャの千円札一枚と小銭がある。
どうやら勘定しようとしている様子だが、有るはずの手持ち金が無くて困っているらしい。
店員と客の目が集中し、男性はもはやこれまでという顔をして途方にくれている。
私は我関せずとコップ酒をやっていると、四~五人席を置いて座っていた七十歳ぐらいの老人が、すっと立って男性に近づいた。
老人は徐に『これ使ってくれ』と小さくたたんだ千円札を男性の手に握らせた。
男性は赤の他人に思いがけない好意を受け、酔いも醒め真摯な顔つきになった。そして老人に感謝の気持ちを全身で表している。
老人は落ち着いた物言いで、『気にすんなって、困っているときはおたがいさまだ』と男性を慰め、自分の席に戻って何事もなかってように黙って杯を傾けるのだった。
騒動が終って店員も客も元通りの顔に戻り、私はそろそろ引き上げようと残り酒を乾した。
と、その時である。
さっき店を出ていった男性が戻ってきて、『ありましたぁ、カネがありましたよ!』と声を張りあげ、嬉しそうに老人の横に来た。
男性は千円札を二、三枚ひらひらと老人に見せると、『オヤジさん、ほんとに助かりましたあ!』と晴れ晴れしたいい表情をして、何度も頭を下げていた。
私は老人の差し出した千円の重みと男性の表情に心まで温かくなり、シャッターの閉まりかけたアメ横を後にした。