第 2888 号2004.05.30
「 郷愁を呼ぶ香り 」
仲途 帆波(ペンネーム)
「お前はもの覚えが悪いねえ。あたしなんか、日露戦争へ出征する父親に頬ずりされたことを、はっきり覚えているよ。満3歳になったばかりだったけど…」
こう生前の母に、よくからかわれた。小学校入学の1年くらい前からしか、私は記憶が無いからである。
ところがある時、アカシアの花の天ぷらのことを話題にしたら、母は全然覚えていなかった。
今から半世紀以上前のこと、国鉄(現J R)を休職して中国の国策会社に就職した父を追って母と私は大陸へ渡ったが、アカシアはその町の風物詩だった。
私が小学校入学から3年間を過ごした青島は、ヨーロッパ的な風景の中に街路樹のアカシアがよく似合う、しゃれた港町だった。誰に聞いたのか母はその時季になると、アカシアの白い花を天ぷらにして食べさせてくれたのである。
後年私が出張でハンブルグ(ドイツ)に行った時、あまりにも雰囲気が青島と似ていることに驚いたが、青島はドイツが中国から租借して、都市計画で作りあげた港だったから、当然といえば当然のことだった。
桜花が散って何日か過ぎると、アカシアも芽吹いてくる。近所の大学の裏通りにはアカシアの大木が何本かあり、白い花の盛りには搾りたてのミルクに似た甘い芳香で、その周辺をすっぽりと包みこむのである。
遠い少年の日の郷愁が鮮やかに蘇る時季も、もうすぐそこまで来ている。
そして今年こそ妻に頼んで、アカシアの花の天ぷらを調理してもらい、半世紀ぶりに試食してみたいと考えている。
注:アカシア別名ニセアカシアは、正しくはハリエンジュという。