「 父のスプリングコート 」
坂本 喜久子(大田区)
戦後の復興がまだ十分でなかった昭和20年代の後半、私は晴れて東京の大学に入学した。一地方都市から上京した私には新宿や渋谷の雑踏もファッションも刺激的で眩しかった。男子学生は黒の学生服、学帽が一般的だったが、女子学生は制服といったものは特になく個性的でお洒落だった。
春爛漫の四月、中央線の駅から大学までは当時バスもなくひばりの鳴く麦畑を抜けて近道をしても20分ほどかかった。朝夕はまだ冷え込み、乾いた日には土埃が舞ったためか女子学生の多くはコートを着ていた。
高校時代の紺色のいわばレインコートをそのまま着用している人もいたが、新学期だけに新調したと思われるカラフルなコート(当時はダスターコートと言った)を着用している人も多かった。
連休を利用して帰省した折、デパートのショウウインドーにマネキンがすてきなコートを羽織っているのが目にとまった。それは淡い若草色の春らしいツィードのコートでスラッとした彫りの深い人形をいっそう引き立てていた。角度を変えては佇みしばし眺めていたが、ため息をついて「欲しい」という思いを呑み込んだ。弟妹も多く地元の大学への進学を望んでいた親を説得しての上京だっただけに言い出し兼ねた。
しかしどうしても諦めきれず次の日の朝食時におそるおそる切り出してみた。案の定「あんたを一人東京に出しただけでも大変なのだから」と母の返事はニベも無かった。沈黙のあと父が箸を休め「買ってやれ」とひと言いった。家の中で父の言う事は絶対だった。
帰る日の朝、いつものように出勤する父を見送るため次の間に座った。
靴の紐を結ぶため屈んだ父のコートの襟をみて私の体に鋭い痛みのようなものが走った。玉虫色のスプリングコートの襟は長年の使用で擦り切れ母がミシンでジグザグに補修したあとが見て取れた。
本当に新しいコートが必要だったのは父の方だったのだ。念願のコートを手に入れた時の弾むような気持ちはしぼみ、我儘への悔いでしばし呆然として畳に手をついていた。
毎年桜の季節になるとこの遠い日の出来事が微かな痛みを伴って甦る。
そのことを謝る機会も逸して父が逝ってから今年で13回忌を迎える。