「 ロンドンで落とした手帳 」
池田 太郎(ペンネーム)
地下鉄のピカデリー・サービスの駅は、ロンドンの繁華街の中心で、東京で言えば銀座四丁目である。
雑踏で込み合う地下鉄の改札口を出たところにある公衆電話を使った後、タクシーに乗って会議に向かった。運転手さんに行き先を伝えてからしばらくして、背広の内ポケットを何気なく触ると、いつもの感じと違う。慌てて両方のポッケトを探った。やはり手帳がなくなっていた。
財布は落としてもお金だけの問題で済むが、日記を失うことは自分自身の経験の一部を失うような気がして、初めてその価値の大きさに気づいて慌てた。
そこで、運転手さんにピカデリーに戻るように言って、改めて探したが、手帳は見当たらなかった。会議終了後、再び同じ場所に戻って手帳を探し、ごみ箱の中まで見た。掃除をしていたおばさんにも、黒い手帳がなかったか聞いて見たが、そんなものはなかったという。近くの警察署にも行って確認したが、届け出はなかった。異国の地の繁華街で日本語の手帳を無くしても出てくるはずがなかった。
帰国して一か月以上経った後のことだった。外国の知らない人から厚い封筒が送られてきた。何かと思って開けて見ると、まさか、その手帳がビニールに何重にも包まれて入っていた。そして、小さな紙に、手書きで「これはあなたにとって貴重なものでしょう。」と書いてあった。パン屋さんに勤めている人からのようであった。
日本語の手帳であり、中身を読めるはずがないのにどうして、と不思議に思ったが、自分でもすっかり忘れていたが、手帳をよく見返すと、ローマ字で自分の名前と住所を書いてあった。
手帳を手許にして、その年の秋までの空白となった時間を取り戻したような気持ちになった。わざわざ手間をかけて送り返してくれた好意に、国境を越えた人の気持ちの温かさを感じた。