「 北帰行 」
レイ(ペンネーム)
〈窓は夜露に濡れて、みやこすでに遠のく…〉酔うと必ず歌う男がいた。青春を過ごした遥けき満州に思いを馳せているのか、目を瞑り、軽く手拍子をとりながら歌うのだ。男は「東亜同文書院」の歌だと私に教えた。だから長いこと私もそう思い込んでいた。ところが大連からの引揚者の友人が言った。あの歌は「旅順高等学校の生徒が作った歌なのよ」と。「まぁ、そう」と私は驚いて頷くが、どうでもよいような気にもなった。
ある日、プロ歌手が歌っているのを聞いた。大ヒットしたらしいが、私には男の歌う「北帰行」には及ばなく思えた。歌手の歌い方はどうにも薄っぺらに聞こえてならないのだ。
またある日、あの歌の作者を教えてくれた人がいた。今は亡き、某テレビ局の重役だったU氏が、若き日、かの地で作ったのだと。
時移り、一人息子が大学の受験期を迎えた。父親は、国立大学進学を望んだ。母親は自宅から通える大学なら国立でも私立でもと、物わかりのよい体裁で繕った。が、母親の願いも虚しく、親の元にはいたくなかったのか、北の国の国立大学を息子は選んだ。
三月、「サクラサク」の電報を胸ポケットに、上野駅から旅立つ日が来た。
「身体に気をつけて」涙を見せたくなく、それだけいうのがやっとの母親は、発車ベルも聞かず駅をでた。
〈北へ帰る旅人一人、涙流れて止まぬ…〉
「北帰行」の一節を小さく口ずさみながら、足は自然と上野公園へ向かった。公園はまさに満開の桜が匂い立っている。母親は一本の若木の前に行き、幹を両手で撫でた。つややかな樹肌は青年の肌だ。幹に額をつけ、散りかかる花びらを浴び、涙をポロポロ流し続けた。
「北帰行」を教えてくれた男はいま、幽明さかいにして老人ホームのベッドに横たわっている。口元に耳を寄せれば、抑揚もなく切れ切れに歌っている。
富も名誉も恋も、遠き憧れの日も
望み淡く儚き心、栄光我を去りゆく……〉
表情は穏やかで笑みが浮かぶ。夢の中で男は青年時代に戻り、真っ赤な太陽を浴びながら、満州の沃野を歩いているのだろうか。