第 2822 号2003.02.23
「 ゆずりあい 」
栗本 貴子(埼玉県川口市)
ある朝、地下鉄の車中のできごとでした。
10時半始業の会社に勤める私は、通勤ラッシュのピークを過ぎた9時半ごろ、地下鉄に乗って通っています。その時間帯になると人ごみも疎らで、座席がガラガラといったようなことはないにしても、つり革につかまり立つ人は、ピアノの黒鍵のようにところどころといったような感じでしょうか…。
その日の朝。運良く座ることができた私は、読みかけの文庫本を読み上げてしまおうと、それまでのストーリーを思い起こしておりました。前の方のページを繰っていたその時、私の隣に腰掛けていた20代前半とうかがえる女性が、「どうぞ。」と言って、私の前に立っておられた年配の男性に席を譲ろうと立ち上がりました。本に気をとられていた私は、『私こそが席をゆずるべきであったのに。』と、気が付かなかった自分を恥じ、責めたい気持ちでおりました。
一方、席を譲られた男性はというと、「私は席を譲られる程、老いぼれちゃいませんよ。」と、少々『心外である』というような様子で拒否されたのでした。周りでその様子を見ていた人々は、その意外な成り行きを少し心配した面持ちで見守っておりました。もちろんこの私も。
するとその女性は、臆することなく「お気に障られたのなら申し訳ございません。ただ、私よりもお目上の方とお見受けしましたので、若輩者の私が立つのが当然と思ったまでです。ですから、どうぞ。」と、手を男性の背中にそっと回して促したのです。男性は、逆に意表をつかれたというような表情をされて、ごくごく自然にシートに腰をおろしました。
私は心の中で、大きな拍手を送りました。おそらく周りの人々も…。
20代そこそこの若い女性がとっさにとった対応に、同じ女性として何とも言えない“美しさ”を感じた出来事でした。