第 2817 号2003.01.19
「 兄のそろばん 」
保坂 節子(八王子市)
兄は珠算が上手だった。そろばんの上を機敏に走る兄の長い指先を、小学生だったわたしはいつもじっと見つめていた。
戦争直後のことで、「読み書きそろばん」の時代であったから、子供たちのお稽古ごとは習字と珠算が多かった。
わたしたち四人の姉妹は、夕方になると大きなちゃぶ台を囲んで、兄にそろばんを教えてもらった。読み上げ算では兄の艶のある声は「何万何千何百円なりっー」と、独特の小節で近所にも響いていた。兄の教えてくれた珠算のなかで一番記憶に残っているのは暗算である。
上級になってくると三桁、四桁の暗算が出てくる。それには頭の中にそろばんを置いて、そのそろばんを頭の中ではじくことだと教えられた。最初の中は目をつぶってそろばんを思い浮かべても、友達の顔や食べ物に変わってしまう。
そんなある日、兄が大切に使っていた自分のそろばんをわたしにくれた。それは父が長男の兄に特別買い与えた、当時としては高価なそろばんであった。かなり使い込んでいたから珠のひとつひとつが茶色に光っていた。裏を返すと四隅に滑り止めのゴムが貼ってあり、兄の名前が彫ってあった。
みんなに羨ましがられながら、わたしはそのそろばんで毎日練習した。その甲斐あって、頭の中に兄のくれたそろばんを置くことも出来るようになったし、目指す級にも合格した。
電卓の目覚ましい普及でそろばんは影をひそめてしまったが、わたしは今でも兄のそろばんで家計簿をつけている。
先日闘病中の兄に電話をした時、このそろばんの話をしたら、もし返してもらえるなら欲しいと言うので、近々持って行くことになっている。少し寂しい気はするが、兄のそろばんはわたしの頭の中にもある。錆び付かないように努めて使おうと思う。